・宇治上神社(世界遺産)

1994年、
ユネスコの
世界遺産に登録された神社です。

明治維新までは隣接する宇治神社と
二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社
と呼ばれてました。

中でも
本殿
平安時代後期の、神社建築として
最古のものに属する建造物です。


左写真は国宝の
拝殿になり、
あまりに優美な姿からか、
離宮「宇治院」の建物を下賜されたものでは
ないかと伝えられています。


本殿
(右写真)は、
平安時代後期に建てられた、
現存する
わが国最古の神社建築の一つと
言われています。


一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の
内殿三棟を左右一列に並べ、
後世これらに共通の覆屋(おおいや)を
かけたものです。

また、その身舎(もや)の扉には、
建立当時の絵画が遺されています。



境内には、宇治七名水のひとつといわれた
桐原水」があります。

室町時代に宇治茶が隆盛を極め、
その茶園の象徴として
「宇治七名園」というものがつくられ、
それに重なり「宇治七名水」というものが
数えらました。

その中の現存する唯一のものです。

ですが、今はあまり飲み水に適さず
神詣の手水として使われています。

(歴史)

文献上初めてこの社が現れるのは、
治暦3年(1067)年、後冷泉天皇が
平等院からこの神社に行幸の後、
離宮明神に神位を授けたというところからだそうです。

藤原氏が平等院建立の後、
この神社はその鎮守社として、
崇敬を集めたといわれています。

まあ、すごく地味な神社です。かなり渋い。


(御祭神)

中殿 応神天皇(父君)
左殿 兎道稚郎子(弟君)
右殿 仁徳天皇(兄君)


(兎道稚郎子の悲劇)

応仁天皇の末の皇子、兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)は
幼くして学を好み、またみんなに非常に愛され、
遂に皇太子になりました。

ですが、父君(応神天皇)がが亡くなられた時、
弟君は太子義を重んじて、あえて位につかず
兄のおおさぎのみこと(後の仁徳天皇)に位を譲り
宇治の地に離宮をたて、のがれられました。

しかし、兄のおおさぎの尊も
「先帝が決めたこと。簡単には変えられぬ。
しかも、弟のほうが人望もあり、すぐに位につくべし。」
と、2人は譲り合いました。

そのため、3年間もの間
人民の心は惑わされ、天下はおおいに乱れました。

それを憂いた兎道稚郎子(弟君)が
「これ以上生き続け、天下を乱れさせるのはよくない。」として、
自ら命を絶ち、兄を皇位に即かせました。

これに、兄が驚き
急ぎ難波より駆けつけ
兎道の宮に弟を手厚く葬った、というのが
この神社の創建の流れといわれています。



アクセス:
京阪「宇治」駅から徒歩数分

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